Maiumiの垂れ流す日常。

フーテンのビーサン画家ことMaiumiの日々のあれこれ思う事や活動内容などを垂れ流すブログです。

新月から春分にかけて

海を旅する愛と美の表現者 Maiumiです。こんばんは。

何だかここのところ、色々と自分の中で湧き出てきた想いというか気付きというか。

 

うまく言語化出来るか分からないんだけど、そもそも垂れ流しblogなので、まとまってないまま書き始めたいと思います。

 

 

雨が凄い。 凄い降り続けてる。 雨が嫌い。 雨が降るから恵みがあることも知ってる。 晴れた日ばかりだと乾燥して大変なことも知ってる。 虹は雨が降らないと出ないことも知ってる。 だけどやっぱり雨は嫌い。 雨がなければ命という命は生きられない、だから雨は素晴らしい、と思い込もうとした。 美しい虹は雨上がりだからこそ姿を顕す、だから雨は素晴らしい、と思い込もうとした。 思い込もうとした、というかそれ自体は事実だけど。それだから愛さなければ、と思っていた。 けど、やっぱり愛せないことに気づいてしまった。 自分の気持ちに知識で蓋をしようとしてた。 こんな自分では駄目だと変わろうとしていた。 でも、本質は雨が嫌い。 わたしは雨を愛せない。 でも、雨は素晴らしいものであることは変わらない事実だろう。

Mai Umiさん(@maiumimaiumi)が投稿した写真 -



わたし、無理なことしようとしてたんだな、と。

愛せないものを愛そうとしていた、というか。

愛さなくちゃいけない、と思っていた。

 

例えば、生まれ故郷である今の居住地 宮崎。或いは、両親。

 

自分の根っことしてあるもの。それらを思うように愛せないことが欠損のように感じてられて、こんな自分ではいけないんだと罰して愛せるように自分の感情を捻じ曲げて愛しているように錯覚をおこそうとしてたというか。。。

 

うーん、何かちょっと微妙に違うかな・・・

 

愛せないということは、価値がないものである。自分のルーツが愛せないのであれば自分自身の価値がないも同然。だから、自己肯定感を持てるようルーツを愛そう、とあれやこれやで捉え方を工夫しようとしていた、というのかな・・・

 

わたしは、興味を持ったことや好きだと思ったことに対して、とてつもない馬力と底力で探求します。グググーーーっと深めていきます。そういうことをしていると、それらを心底愛してるんだな~と実感したりします。

 

それと同じような熱量やベクトルを、「持って然るべき」と感じるものに対して持てなくて、自分が欠陥品のような気持ちになっていて。

 

「愛そう」と努力していた。

 

でもね、気付いちゃったんです。

 

「愛せない」ってことを、捻じ曲げちゃいけないんだってこと。

 

それが、自分の本質。

 

「愛する」って、動詞ですね。

 

でも、「愛」という名詞になると、それは「そこにあるもの」と言われたりしてますね。「在る」んですよね、「する」んじゃなくて。

 

「愛せない」っていうのは、自分が「愛してる」って実感できるような愛し方が出来ない、ってことなんだな、と。

 

でも、そこに愛は「在る」んだろう。

 

上の方のインスタのリンク内で「わたしが雨を愛せなくても、雨が素晴らしいものであることには変わりない」って書いてるんですが、「あー、わたしは故郷を愛している」とか「両親のこと、何を差し置いても愛してる」と到底思えなくても、きっとそこに愛は在るのだろうし、故郷や両親の価値が消えるわけではないんだということ。

 

何せ「愛せなければ価値がないことも同じ」くらいな勢いの強迫観念ですから、必死で愛そうとしてましたし、愛せないことを自分の中で否定し続けてました。それらを愛している人たちに対して「あなたが愛しているものには価値がない」と言ってしまうような気がして。

 

でも。「わたしが愛そうが愛すまいが、対象物の価値は何ら変わらない」ってことに気づいてしまった。気づいてしまったら「わたしってどんだけおこがましいんだろう!」って顔から火が出る思い(笑)

 

わたしには、幼少のころから惹かれるものがいくつかあります。

そして、それらをとても愛しているな~と実感することも多いです。

(具体的には南国・夏・海・青・地図 など)

でも、なぜ物心つく前から好きなのか、理由は分かりません。

 

同じように、愛せないものもあっていいんじゃないかと。

(例えば冬・寒さ・雨・コーヒー・たばこ など)

能動的に積極的に愛せなくても、価値は変わらないしきっと愛はある。

 

あとづけで愛せなくなったものも、道徳的に考えてよろしくないからって無理やり愛そうとしなくていいよね、と。

 

好きじゃないもの、嫌いなものを声を大にしていう必要はないけど、好きじゃないと感じる心を「でもこれこれこうでこんなに素晴らしいものなんだから」と捻じ曲げなくてもいいじゃないか、と。というより、そこを拾い上げる前に捻じ曲げてキレイゴト変換してから受け止めちゃいけない、逆に。そこは正直に自分の想いに目を向ける必要があると感じました。

 

だから、今まで後ろめたい気持ちを持っていたけど

「わたしは宮崎のことをそこまで愛せません」

というのが正直な気持ち(笑)

 あ、これ、結婚している時に住んでいた街もそうだった。

ずっと、愛せないけど…素敵な知人もいるし何よりマンション買っちゃってるしで愛せないなんて口に出来ないし思ってもいけないって自分を罰してた。

土地に関しては、日本の中では湘南と沖縄を非常に愛してるな。

 

両親に関しても、大事にしたい気持ちはあるけど、「愛したいようには」愛せないです。。。。うん。でもお互い、どうせ愛は在るんだよ。愛し方愛され方に不器用なだけでさ。

 

道徳的に・人として・「愛して然るべし」なものを愛せないわたしが駄目なんじゃなくて、「愛せないことから目を逸らしてなんとか理屈で愛すべき理由を数え集めいてたわたしが駄目」だったんだな、という風に感じています、今の所。

 

しかしそれも必要なステップだったということ。

 

なもので、これから先、好きになれないものを無理して好きになろうとはしないと思うので、一般的な目で見たら付き合いにくい人にどんどんなっていくだろうな~と予想してます(笑)

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